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勝手に奈良検定

第150回 勝手に奈良検定

問題1

写真は奈良県内にある城跡の石垣です。さて、このお城の名称はなんでしょう。

1.郡山城
2.宇陀松山城
3.高取城
4.椿井城

第150回 勝手に奈良検定

正解

正解は、2の「宇陀松山城」。

現在の宇陀市にある宇陀松山城。宇陀秋山城が前身で、南北朝から戦国期の14世紀後半に秋山氏が築いた山城です。秋山氏は宇陀地域の有力な国人領主で、「宇陀三将」とよばれる1人でした。城は宇陀松山地区の東、標高473mの古城山の頂上に築かれ、宇陀地域や伊勢街道などを一望できます。写真は天守郭北虎口の石垣です。天正13年(1585)に秋山氏が追放されると、豊臣秀吉の家臣・伊藤掃部頭義之が入部し、以降しばらくは豊臣配下の武将が代々城主となります。現在見ることのできる城跡は秋山氏時代のものではなく、豊臣政権の時代に入部した多賀秀種(1565~1616)が改修した後のものです。平成7年から行われた発掘調査によって、多賀氏の家紋である酢漿草(かたばみ)文の瓦が天守や南西虎口の門跡から出土し、判明しました。

宇陀松山城の遺構を見てみると、天守に至る道端の石に紛れて瓦の欠片が無数に落ちています。大量の瓦と石垣は織豊期城郭遺構の特徴です。織豊期は日本の築城技術がもっとも高まった時期で、幾重にも郭が重なった連続桝形の虎口による堅固な守り、道具を使い削った石材を石垣に用いていることなどから当時の最新技術を用いて築かれた城だと考えられます。関ヶ原の戦いより後に入部した福島孝治が改易となると、城も破却されました。城割(城を破壊する行為)を手がけたのは茶人・作事奉行として知られる小堀遠州(1579~1647)です。城は1度も攻められることなく、発掘調査で発見されるまでの400年間眠りについていました。そんな宇陀松山城ですが、じつは徒歩15分程度で気軽に登城できる城! 天守からは、秋の紅葉、真冬の大峯山など季節ごとに絶景が楽しめます。

問題2

長谷寺の塔頭(たっちゅう)「法起院(ほうきいん)」に祀られている石仏は?

1.大黒天
2.福禄寿(ふくろくじゅ)
3.布袋(ほてい)
4.恵比寿

正解

正解は、3の「布袋(ほてい)」。

長谷寺の塔頭の1つである法起院。長谷寺の像高101.8mの本尊十一面観音菩薩立像を建立した徳道上人が晩年に隠居し、祀られている寺院でもあります。徳道上人尊像を祀る本堂の向かって左の、上人御廟十三重石塔の前に大きな布袋の石仏が祀られています。日本では七福神の1人「布袋さん」として親しみをもっている人も多いでしょう。布袋は中国唐代の明州奉化(ほうか)県出身の僧で、名を釈契此(しゃくかいし)といいました。雪竇山資聖寺(せっちょうざんしせいじ)に住まい、大袋を持って街中を巡り、吉凶や天候を占いました。身の回りの物を入れた袋を常に背負っていることから「布袋さん」とよばれたようです。法起院にはふっくらとした顔と太鼓腹、膝を崩した姿の布袋さんが祀られています。

さて、法起院は西国三十三所の観音霊場の1つでもあります。西国三十三所霊場は日本最古の巡礼路で、長谷寺の徳道上人が開いたという伝説が残っています。病で仮死状態に陥った徳道上人が冥界で閻魔王と出会い、「まだお前は死んではならない。世の中にいる悩み苦しむ人々を救うため、現世に三十三所の観音霊場を創り、巡礼を勧めなさい」と言われ、授けられた三十三の宝印に従って霊場を設けました。徳道上人の時代に巡礼は広まりませんでしたが、270年後に花山法皇が摂津の中山寺に徳道上人が埋めた宝印を見つけ、再興されました。長谷寺の修二会結願(けちがん)の日(旧正月十四日)に行われる「だだおし」では、閻魔王から授けられた宝印・檀拏印(だんだいん)が押されます。

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