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勝手に奈良検定

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第51回 勝手に奈良検定

問題1

世界に誇る歴史文化遺産「平城宮跡」をメイン会場として開催中の平城遷都1300年祭。会場には当時の政治・儀式の場となっていた建物が復原・公開されています。何という建物でしょうか。

第51回 勝手に奈良検定

正解

正解は、第一次大極殿(だいいちじだいごくでん)。

平城宮の正門である朱雀門から北に約800m。平城宮最大の宮殿である「大極殿」が復原されました。その規模は正面が約44.0m、側面約19.5m、高さ約27.1m。天皇の即位式や外国使節との謁見などに使われていました。建物の中には、当時天皇が儀式の際に座った「高御座(たかみくら)」も復原され、中央に置かれています。また内壁には、日本画家上村淳之氏の筆による、東西南北をつかさどる四神「青龍」「白虎」「朱雀」「玄武」のほか、十二支が描かれています。

復原に際しては、発掘調査の結果や平安時代に描かれた絵図、同時代の建築物である薬師寺東塔や法隆寺金堂などが参考にされました。「大極」は「北極星(天の中心)」を意味する言葉で、宇宙の中心である天皇を象徴するものです。大極殿は、まさしく天平文化の中枢としての役割を担っていたのです。

問題2

平城宮北側には、当時、天皇が宴を催す大規模な苑地(えんち)がありました。中国の禁苑(きんえん=皇室の庭園)にならって造られたといわれるこの苑地は、何と呼ばれていたでしょうか。

正解

正解は、松林苑(しょうりんえん)。

『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、松林苑は平城宮に属した施設で、天皇が臣下を集めて曲水(きょくすい)の宴を催し、騎射(きしゃ)、大射(たいしゃ)などの行事にも使われていたとあります。中国の禁苑との比較調査で、東西1km、南北1.2kmほどの庭園と想定されています。

平城宮から北側には、標高100mほどのなだらかな丘陵が東西に広がり、その南縁部に沿って日本最大級の佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群が分布しています。その内、猫塚古墳、塩塚古墳、オセ山古墳等が「松林苑」と呼ばれる当時の庭園に取り込まれていました。

塩塚古墳の西側の谷沿いには、松林苑の西辺にあたる築地塀が残り、猫塚古墳には石敷きや掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が確認されています。古墳の周濠を苑地とし、墳丘が築山(つきやま)に改変されていた様子がうかがえます。遠くに春日山、間近に大極殿が望める風光明媚な地に、古墳の自然環境を溶け込ませた見事な庭園が造られていたのです。

問題3

794年、都は平安京に遷り、奈良時代の幕が下りました。ところが平安時代に入ってからも平安京と平城京の「二所朝廷(にしょちょうてい)」と呼ばれた時代があり、平城京遷都を画策する事件が起こります。この事件は、何と呼ばれているでしょう。

正解

正解は、薬子の変(くすこのへん)。

806年に桓武(かんむ)天皇崩御後に即位した平城(へいぜい)天皇は、病弱だったために、809年、嵯峨(さが)天皇に皇位を譲りました。810年、退位した平城上皇は、療養のために平城宮へ移ります。上皇の下には諸官吏が派遣され、平安京と並んで「二所朝廷」と呼ばれました。健康を取り戻した上皇は、平安京を廃して平城宮へ遷都する詔勅(しょうちょく)を出しますが、嵯峨天皇はいち早くこのクーデターを察知していました。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と藤原冬嗣(ふゆつぐ)を「造平城京使(ぞうへいじょうきょうし)」に任命して、平城上皇の監視役とさせます。遷都を画策していた上皇方の藤原仲成(なかなり)が逮捕され、射殺されました。東国へ向かおうとする上皇と、藤原仲成の妹で上皇の寵愛を受けていた薬子は坂上田村麻呂に行く手をはばまれ、平城京に戻りました。上皇は剃髪(ていはつ)して出家し、薬子は毒を仰いで自殺。これがいわゆる「薬子の変」と呼ばれる事件です。

上皇は亡くなるまで平城京で過ごし、楊梅陵(やまもものみささぎ)に葬られました。現在、この陵は奈良市佐紀町にあります。

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