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勝手に奈良検定

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第52回 勝手に奈良検定

問題1

和銅3年(710)、都は藤原京(写真)から平城京に遷されましたが、このときの天皇は、いったい誰でしょうか。

第52回 勝手に奈良検定

正解

正解は、元明天皇。

壬申の乱(672年)後、律令国家の体制を整えた天武天皇の事業は、皇后である持統天皇に引き継がれ、宮城を中心とした広大な藤原京が造営されました(694年)。しかし次の文武天皇の時代に、遣唐使によって唐の都・長安の様子が伝えられ、それをモデルとした新都造りの計画が起こります。南向きの都城として造られた藤原京でしたが、交通路の問題で、北側からのアクセスにならざるを得なかったことも遷都の理由の1つだったようです。

文武天皇のあとを継いだ元明女帝は、和銅元年(708)、平城京への遷都を命じた詔を出します。「平城の地は四禽(しきん)図に叶い、天香久山、耳成山、畝傍山の三山が南方の鎮めとなり、まこと都邑(とゆう)たるにふさわしい」と、平城の地が選ばれたようです。「四禽図に叶う」とは、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神が、地の東西南北に位置しているという意味です。平城遷都1300年記念で今回復原された第一次大極殿内部の壁にも、四神が描かれました。

問題2

平城遷都1300年祭の平城宮跡会場には、遣唐使船が復原展示されています。第9次遣唐使船で、吉備真備(きびのまきび)や玄ぼうらと共に唐に渡ったこの人。「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」と詠んだ歌が百人一首に選ばれています。ついに日本に帰ることがなかった、この遣唐使は誰でしょう。

正解

正解は、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)。

阿倍仲麻呂は、文武二年(698)大和の国に生まれ、幼少からの才能をかわれて第9次遣唐使に同行しました。同期の留学生には吉備真備、玄ぼうらがいます。唐では学問にいそしみ、日本人でありながら難関の役人登用試験に合格し、唐の宮廷に仕えました。皇帝・玄宗に重用され、朝衡という唐名をいただき、李白・王維などの唐詩人との親交も深めていました。

第10次遣唐使の来唐の折、吉備真備、玄ぼうは帰国しましたが、皇帝は仲麻呂の学才を惜しんで帰国の許可を与えなかったため、日本に帰ることができませんでした。第12次遣唐使が来唐の際、すでに在唐35年になっていた仲麻呂は乗船しますが、暴風雨に遭って安南(現在のベトナム)に漂着、再び陸路で長安に戻ることになります。仲麻呂は日本への帰国を断念し、長安で73歳の生涯を閉じました。

「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌は、遠い異国にあって、月をめでながら故郷をしのんだ歌として知られています。『吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)』では、日本に帰れずに鬼と化した仲麻呂が、唐に来た吉備真備を助け、唐から課せられた難解な詩の解読や囲碁の勝負などに一役買うという、面白いエピソードが描かれています。

問題3

平城京遷都を主導した藤原不比等(ふひと)は、4人の子を政界に送り、勢力を拡大していきました。しかし、不比等の死後、政権をとったこの人は、謀反の罪を着せられて自殺に追いこまれてしまいます。平城京の東南部にあったこの人の邸宅跡からは、多くの木簡が発見されています。さて、この人は誰でしょう。

正解

正解は、長屋王(ながやのおう)。

平城京遷都を主導し、権力の名を欲しいままにしていた藤原不比等の死後、高市皇子の子で、天武天皇の孫であった長屋王が権勢をのばしてきました。不比等の4人の子である武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の4兄弟は、勢力挽回のため、長屋王をおとしめるべく謀略を練ります。

神亀六年(729)、漆部君足(ぬりべのきみたり)らが「長屋王はひそかに左道(異端の術)を学んで国家を傾けようとしている」と密告、宇合らの軍が長屋王邸を取り囲み、長屋王を自殺に追いこみました。長屋王の死後、藤原4兄弟は、聖武天皇夫人である妹の光明子を皇后に立て、政権の奪回を図りましたが、天然痘により天平9年(737)に、全員次々と亡くなってしまいました。

昭和61年から平成元年にかけて、百貨店の建設予定地で行われた発掘調査で、奈良時代の貴族邸宅跡と推定される大量の木簡が発見され、話題となりました。6万5千点にのぼる木簡から、ここが長屋王の邸宅であったことがわかったのです。

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