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勝手に奈良検定

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第57回 勝手に奈良検定

問題1

奈良の1年の最後を飾る「春日若宮おん祭」は、春日大社摂社若宮神社の例祭です。この祭は、平安時代に、時の関白が五穀豊穣・国家安泰を若宮社に祈願して始まったと伝えられています。この関白とは誰でしょうか。

第57回 勝手に奈良検定

正解

正解は、藤原忠通(ただみち)。

藤原不比等が鹿島の神を勧請して創建された春日大社は、春日造の4棟の本殿からなります。若宮社は、第三殿の天児屋根命(あめのこやねのみこと)と第四殿の比売神(ひめがみ)の御子神(みこがみ)を祀ります。大雨洪水による飢饉や、疫病の蔓延(まんえん)から救ってもらおうと、時の関白藤原忠通が保延元年(1135)に若宮社を創祀、翌年に盛大に祭礼を行ったのが「おん祭」の始まりです。

「おん祭」は、12月15日から18日までの4日間にわたって繰り広げられます。松明の明かりだけの暗闇のなか、若宮をお旅所の行宮(あんぐう)へお遷しする「遷幸(せんこう)の儀」は、17日の午前0時に始まります。お旅所では引き続き暁祭(あかつきさい)が行われます。昼間は正午から、1000人もの人々が行列してお旅所の若宮に挨拶に向かう「お渡り式」のあと、お旅所前の芝舞台で、社伝神楽・東遊(あずまあそび)・細男(せいのお)・舞楽などの芸能が奉納される「お旅所祭」が、深夜まで行われます。

23時、若宮をお旅所から若宮神社へお還しする「還幸(かんこう)の儀」が行われ、「遷幸の儀」と同様、暗闇のなかを若宮が帰られます。このように丸1日のあいだ、若宮をなぐさめるためにさまざまな祭儀が執り行われ、平安から途絶えることなく続く歴史とその多彩さから、「おん祭」は「生ける芸能史」と呼ばれます。舞いや踊り、その装束には、日本の芸能文化の源流が随所に見られます。

問題2

毎年12月の第1日曜日、桜井市高田で行われるお祭りは、子どもたちが大活躍する祭りとして知られます。何というお祭りでしょうか。

正解

正解は、「亥の子の暴れ祭」。

中国には、旧暦10月の亥の日、亥の刻(21時~23時)に、穀物の混ざった餅を食べて無病息災を祈る風習があります。これが日本に伝わり、収穫の終わった12月に「亥の子祭」と呼ばれるお祭りが行われるようになりました。桜井市高田の「亥の子の暴れ祭」は江戸時代初期から受け継がれたお祭りです。神への捧げ物を子どもが奪い合い、大暴れする珍しい祭りとして知られ、県指定無形民俗文化財となっています。

お祭りの日、集落の集荷所に作られたお仮屋には、ネムノキで作った鋤や鎌などのミニチュア農具が吊り下げられます。頭屋(世話係)の合図で子どもたちがそれらを奪い合い、お仮屋が壊れるまで暴れます(お仮屋暴れ)。また直会(なおらい)では、ワラで5段に巻いたお赤飯(ハチマキメシ)やひじき、大豆などが載ったお膳を蹴飛ばし、皿を割るなどの乱暴をします(膳暴れ)。さらに神棚に祀られた神のお屋形に灯明が灯されると、ワラを投げつけて火を消し、点灯の邪魔をします(火消し暴れ)。子どもが暴れれば暴れるほど、神様が喜ぶといわれます。

その後、頭屋が、ご分霊の宿るお屋形を集落の南に鎮座する山口神社へ運びます(神送り)。山口神社はお社がなく、ご神木の前に、吉野から持ち帰られる小石が積まれただけの神社です。神送りは、人と顔を合わせたり言葉を交わしたりしないで済む夜半に行われ、御幣を取り替えたところで、お祭りは無事終了します。

問題3

平安時代初めのこの僧は、東大寺東南院を建立し、南都仏教の研究に励みました。吉野郡黒滝村に鳳閣寺(ほうかくじ)を建て、修験道中興の祖ともいわれます。
さて、この僧は誰でしょう。

正解

正解は、理源大師聖宝(りげんだいししょうぼう)。

理源大師聖宝(832年~909年)は、平安時代初期の真言宗の僧で、京都・醍醐寺の開祖として知られます。空海の実弟である真雅を師として出家し、東大寺東南院を建立して、三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん)など南都仏教の研究に励みました。清廉潔白で豪放な人物として知られ、金剛・葛城山や吉野金峯山(きんぷせん)で山岳修行を積んだことから、修験道中興の祖としても仰がれています。

理源大師は寛平7年(895)、吉野山奥千本に続く百貝岳(ひゃっかいだけ)の中腹に鳳閣寺を建立します。伝説によれば当時、大峰山中に棲む大蛇が人々をおびやかしていました。そこで理源大師はお供の箱屋勘兵衛と山に登りホラ貝を吹いて祈祷し、大蛇を退治したといいます。鳳閣寺には、退治された大蛇の頭骨と伝える骨が残されています。またホラ貝の音が百もの貝を吹いたように聞こえたことから、「百貝岳」の名がついたといいます。百貝岳ハイキングコースには大師の「石の廟塔」(びょうとう)が建ち、重要文化財に指定されています。

ちなみに、お供の箱屋勘兵衛は、理源大師の好物であった餅(もち)や飯(いい)をいつも持参したので、「餅飯殿(もちいいどの)」と呼ばれました。やがて勘兵衛の住まいがあった町(奈良市の猿沢池近く)も、餅飯殿(もちいどの)と呼ばれるようになったといわれています。多くの商店で賑わう餅飯殿通りのなかほどのお堂には、理源大師の像が祀られています。

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