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勝手に奈良検定

第62回 勝手に奈良検定

問題1

大海人皇子(おおあまのおうじ。のちの天武天皇)や源義経とゆかりが深く、戦勝にご利益があるという吉野のこの神社、さて名前は何でしょう。

第62回 勝手に奈良検定

正解

正解は、勝手神社。

吉野山の上千本、奥千本に続く道と、谷を隔てた如意輪寺へ続く道との分岐点に鎮座しています。吉野八社明神の1社で、金峯山の山の入口にあることから「山口神社」とも呼ばれています。また「勝手」という名前から、戦勝の神として、多くの武将たちの崇敬を集めてきました。

天智天皇2年(672)の壬申の乱の際、吉野で挙兵した大海人皇子が、この神社の神前で琴を奏でられたとき、後方の袖振山から天女が舞いながら現れ、吉兆を示したという伝説があります。この伝承から、勝手神社は芸事の神としても信仰を集めています。

さらにこの神社は、義経と別れた静御前が追手に捕えられ、請われて法楽の舞いを舞った場所としても有名です。雪の舞い散るなか、妖艶な舞と静御前の美しさに、荒法師たちも息を呑んだと伝えられ、義経哀史のクライマックスといえる名場面です。社殿は平成13年(2001)に焼失してしまいましたが、舞舞台(神楽殿)の跡地には、「義経公静旧跡・舞塚」の石碑が建っています。

問題2

林邑(りんゆう)国(ベトナム)出身のこの僧は、天平8年(736)に唐から来日し、752年の東大寺の大仏開眼供養では林邑楽の舞を奉納しました。さて、この僧は誰でしょう。

正解

正解は、仏哲(ぶってつ)。

仏哲(生没年不明)はベトナムのフエ出身の僧で、奈良時代に日本にやってきた渡来僧です。インドで菩提遷那(ぼだいせんな)に師事、唐に入り、当時日本から唐に来ていた僧・理鏡らの招きで、菩提遷那、道せん(どうせん)らとともに来日し、大安寺に住みました。仏哲は密呪(みつじゅ)に秀でていたことから、さまざまな密教教典も日本へ伝えたといいます。

また林邑(りんゆう)楽(雅楽の一種)を教え、菩提遷那が導師を勤めた天平勝宝4年(752)の大仏開眼供養では、仏哲が林邑楽にあわせて「抜頭」(ばとう)を奉納しました。現在日本には「林邑乱声(らんじょう)」のほか、林邑の八楽として『菩薩(ぼさつ)』『陪臚(ばいろ)』『抜頭(ばとう)』『迦陵頻(かりょうびん)』『胡飲酒(こんじゅ)』などが伝えられています。

林邑楽とは、2世紀ごろ、いまのベトナム南部付近につくられた林邑国(チャンパ国)の音楽で、インド文化の影響を強く受けているといわれます。日本では大同4年(809)には雅楽寮に楽師が置かれ、たいへん重要視され、その後、唐楽左舞(とうがくさまい)に編入されて現在に至っています。

問題3

奈良時代後期の貴族、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が創設した、日本最古の図書館とは何でしょう。

正解

正解は、芸亭院(うんていいん)。

現在の奈良市立一条高校のあたりにあったと考えられ、国道24号沿いに、史跡を示す説明板が立っています。

石上宅嗣(729~781)は当時でも有数の知識人で、仏教を篤く信仰していたことでも知られます。その晩年、自身の邸宅を阿しゅく寺(あしゅくじ)として改装した際に、敷地内に現在でいう“図書館”を建造しました。建物は「芸亭院」と名づけられ、さまざまな古今の漢籍を中心とした蔵書を、希望者が閲覧することを許可したといわれています。

「芸亭」とは「芸香草亭(うんこうそうてい)」の略です。芸香草は薬草の一種で、本の虫よけとして使われていたことから芸香草が書物の代名詞となり、施設の名前にも用いられました。芸亭は勉強熱心な青年貴族たちの学びの場にもなり、宅嗣の死後も存続していましたが、長岡京、平安京と都が遷り、平城京が荒廃すると、同じ運命をたどりました。

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