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勝手に奈良検定

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第74回 勝手に奈良検定

問題1

さてこのお墓、いったい誰が眠っているでしょう。。ヒントは手前の文字に隠されています。

第74回 勝手に奈良検定

正解

正解は、 豊臣秀長(とよとみひでなが)。

現在、大和郡山市にある郡山城の南西約1kmのところに静かに祀られています。豊臣秀長は太閤豊臣秀吉の異父弟。郡山城の城主だった筒井氏が国替えで城を出たあと、天正13年(1585)に郡山城へ入りました。大和、和泉、紀伊の3国を治めた100万石の太守であり、とくに郡山城の整備や城下町の発展には熱心でした。

秀吉からの信頼も厚く、天正15年(1587)に大納言となったあとは、大和大納言と呼ばれて民衆からも慕われました。しかし天正19年(1591)、秀長は郡山城内で、51歳の若さで亡くなってしまいます。江戸時代になると墓所は荒れたものの、菩提寺である春岳院の栄隆法印(えいりゅうほういん)の尽力や、民衆たちの後押しもあり、安永6年(1777)に現在のかたちに整備されました。大納言塚と呼ばれ、いまも献花が絶えることはありません。

手前の石に刻まれた「箱本(はこもと)」の文字は、秀長がつくった「箱本制度」に由来しています。これは城下町の外堀の中にある13町(箱本十三町)が、伝馬(てんま)や防災の責任を輪番で負う自治制度です。この13町は秀長の商工業保護政策による特権が与えられていましたが、同時に当番になった町は、特許状の入った朱印箱を置き旗を立て、ひと月の間、全町内の治安、消火などを請け負いました。これにより郡山城下は大いに栄え、民衆たちは秀長にいっそう敬愛の念をもちました。箱本の文字には、そんな町民たちの思いも刻まれているのです。

問題2

この仏は、はじめ釈迦如来、次に千手千眼観音、さらには弥勒菩薩の姿で現れ、最終的に別の姿で現れました。さて、何寺の何という仏でしょうか。

正解

正解は、金峯山寺(きんぷせんじ)の蔵王権現(ざおうごんげん)。

蔵王権現といえば、髪を逆立て、目は怒りに見開き、鼻にはしわを寄せ、開いた口には牙をむき、全身を青色に染めた恐ろしい姿で知られます。また右手に持った三鈷杵(さんこしょ)で魔を砕き、左手に結んだ刀印(とういん)で煩悩や情欲を絶つと言われます。しかし最初は、このような恐ろしい姿ではありませんでした。

蔵王権現をこの世に感得したのは、修験道の開祖として知られる役小角(えんのおづぬ)、通称、役行者(えんのぎょうじゃ)と伝えます。役行者は大峯での厳しい千日行のなかで、当時の世を救うための仏を欲しました。すると最初に釈迦如来が現れます。しかし乱れた世の人々にはあなたの本当の姿を見ることはできないだろうと、役行者は言いました。すると次に、千手千眼観音が現れました。しかし役行者は、あなたの優しい姿は今の世にはふさわしくないと言います。

すると今度は弥勒菩薩が現れました。しかし役行者はまたしても、釈迦の意志を継ぐあなたの姿はふさわしくないと言うのです。するとにわかに雷鳴が響き地面が揺れて岩の中から蔵王権現が現れました。役行者は、あなたこそ私が求めた仏であるとようやく満足します。金峯山寺や大峯山寺で蔵王権現3体を祀っているのは、釈迦如来、千手千眼観音、弥勒菩薩それぞれが姿を変えた蔵王権現を祀っているからと伝えます。金峯山寺では現在、平成の仁王門大修理に伴う特別開帳を6月7日まで行っており、迫力の蔵王権現を間近に拝観できます。

問題3

古代建築が建ち並ぶ奈良ですが、近代建築の中にも見るべき建物が残されています。それでは片山東熊(かたやまとうくま)の手によって明治27年(1894)に完成した、奈良市内に現存する建物といえば、さて何でしょう。

正解

正解は、奈良国立博物館本館(なら仏像館)。

当時の名称は、帝国奈良博物館です。設計にあたった片山東熊(1854-1917)は宮廷建築家として活躍し、赤坂離宮や東京・京都・奈良の3つの国立博物館を手がけたことで知られます。フランス風の宮殿建築を得意とし、たとえば帝国京都博物館(明治28年)の屋根は、17世紀のフランス風に大きく立ち上がった「マンサード屋根」が大きく目を引きます。

帝国奈良博物館は、フレンチルネサンス高揚期の様式をとった、明治中期の代表的な欧風建築です。とくに玄関周りの装飾は秀逸です。1階部分から正面を貫いて建つジャイアント・オーダーの2本の柱は、柱頭にアカンサスの装飾と角状の巻きをもつコンポジット式で、バロック様式の躍動感がよく表れています。また、正面玄関上部にある櫛形ペディメントの「破風(はふ)」の部分にも、精緻な装飾が施されています。建物は、昭和44年(1969)に「旧帝国奈良博物館本館」として重要文化財に指定されました。

博物館が建てられた明治中期は、それまでの西洋建築一辺倒の風潮に批判が高まってきたころでした。伝統建築の良さを見直す動きが活発化し、明治24年(1891)の濃尾地震で西洋建物が大きく倒壊したことも、議論に拍車をかけました。結局奈良公園内に、帝国奈良博物館以外の西洋建築が建つことはありませんでした。しかし重厚かつ壮麗な建物は、寺院建築しか見たことのない奈良の人々には驚きだったに違いありません。竣工後は大勢の人々が物珍しさに押し寄せたため、急きょ、観覧料をとる騒ぎとなったと、記録に残されています。

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