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勝手に奈良検定

第107回 勝手に奈良検定

問題1

この椿には、ある特別な名称があります。奈良の春迎えの行事にゆかりのあるこの椿、
さて、名前は何というでしょう。

1.五色椿
2.糊こぼし
3.散り椿
4.若宮椿

第107回 勝手に奈良検定

正解

正解は、2の「糊こぼし」。

問題のなかにある「春迎えの行事」とは、東大寺二月堂修二会(しゅにえ)のことです。毎年3月1日~14日まで、二月堂から突き出される松明は圧巻。また3月13日の午前1時半すぎ、若狭から流れてくるという伝承のある香水(こうずい)を汲み、十一面観音に供える「水取り」の行事は名高く、お松明やお水取りの通称でよく知られています。修二会が終わると奈良には春が訪れると言われ、仏教や古くからの民俗信仰などが入り混じった、春を呼ぶ行事として知られています。(行事詳細はこちら

この行事で欠かせない物の1つに、椿の造花があります。これは本行が始まる前の前行の間に、行に籠る11人の練行衆(れんぎょうしゅう)らの手によって1つ1つ丁寧に作られるもので、赤と白の紙で花びらを、黄色の紙で花のしべを表現しています。最後には生の椿の枝に挿して、内陣の須弥壇(しゅみだん)の周りに飾られます。赤と白の2色が用いられるのは、二月堂の東側に位置する開山堂の銘椿「糊こぼし」にちなんでのこと。赤い花びらに白の斑(ふ)入りの花を表現しています。

1の五色椿は白毫寺(奈良市)の椿です。1つの枝に、赤と白とがさまざまに入り混じった花がつき、あたかも五色のように見え、花びらが散った境内もまた美しいものです。3の散り椿は伝香寺(奈良市)の椿。ふつう椿の花は、花の付け根からぼとりと落ちますが、伝香寺の椿は花びらがひとひらひとひら散っていくため、この名が付きました。散り際の美しさが若くして世を去った筒井順慶になぞらえられ、武士椿(もののふつばき)の別名もあります。4の若宮椿は、春日大社若宮社近くの椿。八重咲きの真紅の椿で、5月初旬まで楽しめます。

問題2

奈良大和路を撮り続けた写真家、故入江泰吉(いりえたいきち)。入江を慕う人々やお弟子さんたちを中心に、自然発生的にできた集まりの名前は、さて、何でしょう。

1.光芸社
2.天平の会
3.東洋美術研究会
4.水門会

正解

正解は、4の「水門会(すいもんかい)」。

奈良大和路をこよなく愛し、失われゆく大和路の風景、万葉の草花、仏像、伝統行事などを撮り続けた写真家、入江泰吉(1905年~1992年)。奈良の東大寺旧境内地で生まれ育った入江は、長じて大阪に写真機材店を出しましたが、空襲で焼け、再び奈良に戻ってきました。すでに作品「春の文楽」で名を上げ始めていた入江でしたが、戦後、日本の古美術品がアメリカに接収されるとの噂を聞き、抑えきれない思いから仏像を撮り始めたのが、奈良大和路の写真家、入江泰吉の原点と言ってよいでしょう。

そんな入江が昭和24年(1949)から住み始めたのが、奈良市水門町の家です。水門町は東大寺の西側に広がるエリアで、お寺はまさに目と鼻の先。また昔ながらの民家が建ち並び、土塀や生け垣が美しく、家のすぐ西側を吉城川が流れ鹿も遊ぶ、まさに〝奈良そのもの〟といった町です。ここには、入江のお弟子さんや友人らがいつも集い、写真研究会をはじめとするさまざまな会合やイベントが催され、やがて誰となく、「水門会」と呼ばれるようになりました。

選択肢の1は、大阪時代の入江が開いた写真機材店の名前です。また2は、東大寺観音院の上司海雲(かみつかさかいうん)が中心となって創立した会で、主要メンバーには入江のほか小説家の池田小菊、画家の杉本健吉らがいました。3の東洋美術研究会は、入江よりやや年かさの仏像写真家、小川晴暘(せいよう)が創った会で、美術史の會津八一や考古学の浜田青陵(せいりょう)などがメンバーに名を連ねていました。日本人の心に、心象風景としての奈良大和路を刻んだ写真家、入江泰吉。その入江が暮らした水門町の家が、2015年3月1日から公開されます。入江泰吉が心静かに過ごした家を訪ね、奈良に寄せた写真家の思いに心を寄せてみてはいかがでしょう。

問題3

明治維新後、奈良県令に着任した四条隆平(しじょうたかとし)は、まれに見る変わり者だったとか。では、四条県令がやらなかったことは、次のうち、どれでしょうか。

1.興福寺の塀を壊した
2.鹿を絶滅寸前に追い込んだ
3.牛車(ぎっしゃ)で通勤した
4.牛と綿羊を奈良公園周辺で放牧した

正解

正解は、3の「牛車で通勤した」。

幕末から明治に移り、政府は各地の府や県の長として中央から役人を派遣しました。そして明治4年(1871)、奈良県に派遣されたのが、県令の四条隆平(しじょうたかとし、1841~1911)です。名前が示す通り公家の出身ですが、新しいものが大好きで、むしろ古いものをどんどんと切り捨てていくようなところがありました。1300年の歴史がそのまま生きているような奈良に赴任した隆平は、後世まれに見る変わり者、暴れ者として、名を残すことになってしまいます。

隆平が推し進めたことの1つが、当時の明治政府の「神仏分離」の政策を過度に受けた廃仏毀釈です。現在も旧市街の中心地にある興福寺は、その格好のターゲットとなり、多くの建物が壊されたほか、金堂は警察署に、一乗院宸殿は県庁や奈良地方裁判所(現在は移築され、唐招提寺御影堂)に、五重塔に至っては売りに出されるなど、壊滅的な被害を受けました。俳人・正岡子規が「秋風や囲いもなしに興福寺」と詠んだのは、まさにこの騒動があった後のことです。

ほかにも奇抜な行いは数知れず。なかでも馬車に大きな鹿を立てて庁舎に出勤した話は有名です。奈良の鹿と言えば、春日の神獣ですが、隆平は少しも気にすることなく、鹿は害獣だとして柵に囲い込み、劣悪な環境に置かれた鹿はみるみる激減、38頭にまで減ってしまったと記録に残っています。さらに文明開化の影響か、牛肉が好きだったという隆平は、若草山に肉牛や乳牛を放牧、さらに奈良公園に綿羊を放牧しました。しかし結果はいずれも食糧不足で死んでしまったと言います。わずか1年半の在任でしたが、隆平は奈良に文化遺産の破壊という甚大な爪痕を残して去りました。いま、世界遺産として登録されている「古都奈良の文化財」。その過去には、このような暴風雨が吹き荒れた時代があったのです。

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